追悼文5 | ローマ字ひろめ会 顧問 男爵 櫻井錠二博士 追悼録 |
故 男爵 櫻井錠二先生を偲ぶ | 男爵 阪谷芳郎 |
ローマ字第3号 34巻 昭和14年2月12日 |
明治維新後我が新日本の基礎を築き上げたる多くの偉人は相前後して世を去られた。櫻井錠二先生は蓋<ガイ>し最後のお一人ではなかったろうか。先生は我が邦科学会の基礎を築き上げる為め最も大切の役目を果たされた。最近の我が邦化学工業の発達進歩の著しき功績はその源を尋ねれば先生に負う所のものが甚だ多い。現在日支事変の難局に処して、昨今更に世人は先生の存在の我国の為め如何に大切であったかを思い当たるであろう。先生が満腔の熱血を注いで創立に尽力せられたる日本学術振興会は当然永久に先生の好個の記念碑として繁栄し、先生授爵の恩典は当然以上の当然として世を挙げて聖恩の優渥を感激せざるものはあるまい。而して先生がローマ字綴り方の制定に付き終始一貫したる誠意と熱心とを以って尽くされたることの如きは先生の学界に於ける多大なる功業の一小部分に止まると雖<イエド>も亦以って先生識見の高遠にして如何に所信に忠実なるかの一端を見るに足るものあり。不幸にして先生の主張は貫徹せざりしも、余は後世必ず先生の尽力を深く感謝し其の主張の実現の時来るべきを疑わぬのである。 <原文のおくり仮名はカタカナ> |
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付記 阪谷芳郎 (1863-1941) | ||||
東京帝国大学法学部政治科卒業、大蔵省に入り、1903年大蔵次官・1906年第1次西園寺内閣で大蔵大臣を勤める。その後東京市長、貴族院議員を歴任。英語に精通し、カーネギー平和財団の会議やパリ連合国政府経済会議等に出席。日語文科学校創設・神宮球場の誕生や乃木神社の建立に関わる。 妻琴子は渋沢栄一の次女、(穂積歌子の妹) |